私記,生き死につれづれ草
人間と大地
ゼロの発見
人間の生存は厳しく設定がなされているのだがもはや理解しがたい状況になってしまっている。人種とは大地と太陽の緯度経度、月の緯度と経度において厳格に設定がなされている。言葉と人種と大地は三位一体なのだ。軌道共鳴にによって天の赤道を惑星が並んで移動しているのは必然性がある。この生存の原理が20世紀に入り大きく破られ始めてしまった。民族の移動と混在が盛んに行われた。この三つの因子が気候風土を決めているのだから、民族の混在が始まれば気候は安定しなくなる。また人間の感情は異常を来すようになり、人種差別は気候と大地を安定させるが一方では度重なる民族浄化の惨状の発生を引き起こしてきた。これはあたかも血液型の混入によく似た拒絶反応の現象である。一連の気候変動、火山活動、などを引き起こす原因はCO2の排出が問題なのではなく、そのように因果律が進行してしまうと言うことである。因果律の取り違えである。これらは人間の霊性の喪失に他ならない。人間を支える精神の顕在化が気候風土の安定として生まれてこないと言うことである。人間は抽象価値に精神を変換してしまった。人間の異常を訂正するには座標の訂正をすることではあるが最早現実的には不可能な状態である。
現代の整数論において数がただの概念ではなく実態を持つことが理解されてきた。1は1ではないことが理解されるようになってきたのだ。これこそが霊空間五次元の空間トポロジーへの入り口でもある。例えば三角形の辺の長さが有理数になることは稀であることがその意味合いである。線分の交差が0の近似を示していることの意義を考察していただきたい。この理解こそがAB効果、ベクトルポテンシャルを利用するための理論構築にも繋がろう。さてゼロはどこでも勝手には存在しないのです。明瞭な基底において設定される位置なのです。その実体を発見していただきたい。
おんぶに抱っこ
お互いにもたれ合う、あるいは依存すると言う意味合いであるがここでは赤ちゃんの「おんぶ」に「抱っこ」である。赤ん坊を「おんぶ」することと「抱っこ」することは正反対の効果、意味合いがある。このことの考察である。赤ん坊を育てる早期においては特に危険を伴うそこで「おんぶ」と言う方法に行き着いたのだろうと推測される。そして結果がよかったので慣習化されて来たのであろう。しかしながらその意味合いは考察されては来なかった。意識の成長には莫大な環境設定と環境認識が必要である。その構成を毎日汲み取って成長するのが赤ちゃんの仕事である。そしてその習得能力が桁外れの想像の絶するものであることが知られている。「おんぶ」という形は母親と同一方向を見ることになるのでほぼ母親の思考行動観察を全環境の中に理解していくと思われる。生活環境の全域、家族、親族、近所から全てを自己の環境としていく。その個性は親の思考様式から理解されていくことになるので一体感が生まれて、信頼の土台が形成しやすい。では「抱っこ」はどうか。人間が向かい合うと言う意味合いは他人との境界ということになる。動物はではこの関係が明瞭である。この状態における母親は自己の好み、裁量を押し付ける。赤ちゃんは環境の提示がなされていない為に苦しむことになる。母親の動向のみが環境の全てになるので縛られたように苦しむのだ。環境を理解できないので一方的に従わざるを得ない自己を形成してしまう。この結果ははっきり出てくる。それは「おんぶ」のお子さんは自然が好きになる。「抱っこ」のお子さんは人工物が好きになるのである。ティーンネイジャーになるまでは目立たないが中学に入学する頃には変化が現れて30歳になろうとする頃社会からの脱落が始まる。社会環境の理解能力が低く対応できなくなる。現代の社会問題の一つはこのような成長因子の欠落が産み出しているように考えられる。
民主主義に寄せて
信じる世界へ
今という時代は全てが提示されている。何を選ぶのか自由であるということが今という時代の価値なのであろう。国家と国王は民の在り方を規定して国家の存続を果たすように勤めて国家の姿あるべき価値の提示をして国を運営してきた。言葉と風土からの慣習を美化することが国民の使命なのだろう。現代の民主主義は個人の生きる方向を重視して全てが自己に委ねられていくこと、それが可能であると信じて社会を運営している。であればどこに求めるものがあるのかそれこそが個人の目標であり使命であろう。「生きる」ことそのことには「価値」は存在しないのだ。価値観の提示が無いことが現代人の苦しみの一つとなろう。死ねないのだ。どこにあるのだろうか。それを提示することが私の目的であった。ふと気がつくとすべたが明らかに提示されているではないか。それは「歴史」である。民族の歴史こそが絶対的な価値なのだ。言葉が歴史を作り、歴史が言葉を産む。この詳細を検討すれば誰でも真実の価値を見つけ出し真実の未来を生み出すことを保証できる。その参考となる莫大なる書物と類い稀な気候風土が存在する。「真実とは個人の所有で誰にも開示できない」「個人の生きる姿そのもの」それを歴史と言葉の中に自分で探せば良いだけなのだ。他人の関与は不可能なのだ。未来の構築は自らの生きる姿の再構築に他ならないのだ。
人々が厳寒の荒野を彷徨う吹雪が言葉を遮る何も聞こえない。
人々が灼熱の砂漠を歩く容赦のない太陽の光、水の渇きに飢えながら、誰もいないかのように。人々が立ち尽くす、濁流に全てが飲み込まれ地響きが鳴り響く時。誰も見えない。
言葉が消える。そうではないこれが現代人の言葉なのだ。「吹雪」「灼熱」「地響き」これが現代人の放つ「こ、と、ば」。地球に、大地に、空に、海に関与しない、出来ない、反映していない「言葉の残骸、屍」。それが今という秋。何を信じるのですか。最早自分のことだけが正しい世界。言葉を信じていないのなら信じたものに従うしかないのではないのか。その世界に向かえばよい。個人を重んじる世界が拡がるとき他人の関与は存在しない。